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江戸時代の日本人はコーヒーを「焦げくさい」と書いた|1804年の長崎から、輸入量が2万倍になるまで

公開: 2026/09/27 更新: 2026/09/24
江戸時代の日本人はコーヒーを「焦げくさい」と書いた|1804年の長崎から、輸入量が2万倍になるまで

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日本はいま、年に35万トンのコーヒー生豆を輸入しています。ところが、日本人がコーヒーについて書き残したいちばん古い部類の感想は、こうでした。

「焦げくさくして味ふるに堪ず」。焦げくさくて、味わうに堪えない。1804年、長崎でのことです。

1804年、長崎で勧められた一杯

書いたのは大田南畝(おおた・なんぽ)。狂歌師・戯作者として蜀山人(しょくさんじん)の名で知られる人物ですが、本業は幕府の役人でした。文化元年(1804年)から翌年にかけて長崎奉行所に赴任し、その見聞を『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』という随筆に残しています。

「八月九日記」と題された一節に、こうあります。

〇紅毛船にて「カウヒイ」といふものを勸む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず

現代語にすると、こうなります。オランダ船で「カウヒイ」というものを勧められた。豆を黒く炒って粉にし、砂糖を混ぜたものだ。焦げくさくて、味わうに堪えない。

この一節はよく「コーヒーを飲んだ」と紹介されますが、本文の字は「勸む」、つまり勧められた側です。断ったわけではなく、そのあとに味の感想が続くので口はつけています。すすめられて、ひと口飲んで、正直に書いた。砂糖入りだったにもかかわらず、です。

この文章は『蜀山人全集』巻三(明治40〜41年刊)の625ページに収められていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読めます。同じ日の記述には「ゼネイフル」という酒も出てきて、「松の子を以て製したり」と説明されています。ネズの実で香りをつけるオランダのジン、ジェネヴァのことです。

豆そのものは、もっと前から届いていた

南畝の記録は「感想が残っている古い例」であって、豆が来た最初ではありません。コーヒーは長崎・出島のオランダ商館を通じて江戸時代のうちに持ち込まれていました。

ただし「最初の一杯」がいつだったかは、資料によって挙げるものが違います。

  • 1706年 オランダ商館長の日記に、日本人に淹れさせたコーヒーを飲んだ旨の記載があるとされる
  • 1775〜76年 出島に滞在したスウェーデンの博物学者ツンベルクが、コーヒーの味を知る通詞は二、三人だけと書いたとされる
  • 1792年 薩摩藩主・島津重豪がコーヒー豆を送るよう商館に頼んだ記録があるとされる

どれも「出島にはすでにあった」ことを示しますが、どれが最初かを決められるほどには揃っていません。確かなのは、18世紀の出島では、限られた人だけがコーヒーを知っていたということです。南畝の「堪ず」は、その限られた人の一人が残した言葉ということになります。

明治10年、輸入量は18トンだった

統計に残るいちばん古い輸入量は、1877年(明治10年)の18トンです。1杯に10グラム使うとすると、日本全体で年に180万杯ぶん。1日にならせば全国で5,000杯ほどという計算になります。

そこからの伸びを、区切りのいい年だけ並べます。数字は財務省の貿易統計をもとに全日本コーヒー協会がまとめたものです。

年生豆の輸入量この年の出来事
1877年18トン統計上いちばん古い記録
1950年40トン戦争で途絶えていた輸入が再開
1960年10,707トン生豆の輸入が自由化
1970年80,496トンレギュラーコーヒーの輸入が自由化
1980年174,747トン
2000年382,230トン
2025年354,434トン

1877年と2025年を比べると、およそ2万倍です。明治から戦前にかけては少しずつ増えていただけで、戦争で完全に途切れました。跳ね上がるのは1960年の輸入自由化から。10年で8倍、20年で16倍という増え方をしています。

1888年、上野に喫茶店ができる

店で飲めるようになったのは、南畝から84年後のことです。1888年(明治21年)、東京・下谷黒門町(いまの上野一丁目あたり)に「可否茶館(かひさかん)」が開きました。日本で最初の本格的な喫茶店とされます。

開いたのは鄭永慶(てい・えいけい)。二階建ての洋館で、コーヒーはブラックが1杯1銭5厘、ミルク入りが2銭だったと伝えられます。ただし営業は数年にとどまり、鄭永慶自身も後に渡米しました。

コーヒーを出す店が根づくには、まだ早すぎたということです。当時の輸入量は年に数十トン。豆が国じゅうに行き渡るには、あと70年ほどかかります。

いまの一杯の位置

2025年の日本の国内消費量は、生豆に換算して397,272トンでした。その年に輸入した生豆より多いのは、前の年から持ち越した在庫と、インスタントなどの製品として入ってくる分が加わるためです。

南畝が「焦げくさい」と書いたときと、豆の作り方はそう変わっていません。黒く炒って、粉にして、湯を通す。変わったのは、それを口にできる人の数のほうです。

よくある質問(FAQ)

Q. 日本で最初にコーヒーを飲んだのは誰ですか?

特定されていません。出島の商館長日記(1706年)、ツンベルクの紀行(1775〜76年)、島津重豪の注文記録(1792年)など、複数の資料が別々の場面を伝えています。「感想を書き残した古い例」としては、1804年の大田南畝がよく挙げられます。

Q. 大田南畝は本当にコーヒーを飲んだのですか?

『瓊浦又綴』の本文は「勸む」=勧められた、と書いています。ただし直後に「焦げくさくして味ふるに堪ず」と味の感想が続くので、口はつけたと読むのが自然です。

Q. 「カウヒイ」以外の呼び方はありましたか?

江戸期の文献では「カウヒイ」「珈琲」など複数の表記が現れます。「珈琲」の字は幕末の蘭学者・宇田川榕菴が当てたと言われています。

Q. 可否茶館はどんな店でしたか?

1888年に東京・下谷黒門町(いまの上野一丁目あたり)に開いた二階建ての洋館で、コーヒーはブラックが1杯1銭5厘だったと伝えられます。営業は数年にとどまり、いまは日本初の本格的な喫茶店として記録に残っています。

Q. 日本のコーヒー輸入量はいま増えていますか?

2000年に38万トンを超えたあと、おおむね35〜43万トンの間で推移しています。2025年は354,434トンで、直近ではやや減る方向です。

南畝と同じ「黒く炒って粉にする」ところから淹れてみたい方は、手挽きのコーヒーミルをYahoo!ショッピングで探せます。

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まとめ

1804年の長崎で、大田南畝はオランダ船でコーヒーを勧められ、「焦げくさくして味ふるに堪ず」と書きました。砂糖入りでも受けつけなかったわけです。豆自体は18世紀の出島にすでに届いていましたが、味を知る人はごく一部でした。統計に残る最初の輸入量は1877年の18トン。そこから2025年の354,434トンまで、およそ2万倍です。跳ね上がったのは1960年の輸入自由化以降で、それまでは細い線が続いていただけでした。いま当たり前に手に取る一杯は、220年かけて「堪えない」から抜け出してきたものです。

参考サイト

  • https://dl.ndl.go.jp/pid/993338/1/317 | 国立国会図書館デジタルコレクション『蜀山人全集』巻三(吉川弘文館、明治40〜41年)625ページ/『瓊浦又綴』八月九日記の本文
  • https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000047144 | 国立国会図書館レファレンス協同データベース「『瓊浦又綴』を見たい。」(書誌・所収巻・掲載コマ)
  • https://coffee.ajca.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2026/03/data-yunyu-suii2025.pdf | 全日本コーヒー協会「日本のコーヒーの輸入量の推移」(出典:財務省貿易統計)
  • https://coffee.ajca.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2026/09/data-jukyu202607.pdf | 全日本コーヒー協会「日本のコーヒー需給表」
  • https://www.ucc.co.jp/enjoy/encyclopedia/history/index.html | UCC上島珈琲「コーヒーの歴史」(可否茶館の開業年・価格)
  • https://jcs-coffee.org/coffee/56.html/ | 日本コーヒー文化学会「日本で最初にコーヒーを飲んだ人は?」(出島商館日記の記載)

※『瓊浦又綴』の引用は、「勸」など一部を除き、読みやすさのため字体を現行のものに改めています。



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